テレビとかのニュースは人から人へと、どんどんまた聞きになって拡大されて、現実度かけ離れちゃうこととかあるでしょう?
『オゾン層が破壊されている』って聞けば、ヤバイなぁということになるじゃないですか。
フロンガスをこのままほっといたら大変だということになりますよね。
危機感を持つのはいいことだけれど、大げさすぎるような気もするのです。
オゾン層のことばぁっかり研究している人にとっては、どんどん注目してもらうと研究費が増えたりするのかなぁとも思ったりするのです。
学者が小さいオゾン層を見つけたとします。
するとその学者は絶対に
『オゾン層が破壊されている』
と言うでしょう?
それが大変なことのように伝わって(実際に大変なことなんだけれども)、ニュースにした時点で、誇張拡大されているようにも見える。
というか、伝えることが一番大事な事だと考えているみたいに見える。
伝えることが大事なのではなくて、オゾン層が直ることが大事なわけで、
『オゾン層が壊れていることを知ったけれども直らない』よりも
『オゾン層が壊れているなんて全然知らなかったけど、直った』ほうが、よっぽど良いわけです。
ニュースにした時点で、私は
『自分の使っているフロンガスで、地球は後数年の命なのだ』
というイメージが湧きました。
ニュースにして、危機感をあおると、いろいろな文化を極端に抑えることになると思うのです。
でも、抑え方が下手くそだから、自家用車は排ガス規制。
キャスターもオゾンとか環境破壊とか言ってますけど、
『お前、何がわかってるんだ?』
と言いたい。
『いや、私どもは庶民の立場でニュースを・・・』
じゃあ、そこらへんの噂じじいと同じってことじゃないの。
庶民のレベルの説明の仕方だから、アマゾンを守ろうとか言われても、
『なんで木を切っちゃいけないの?』
と思うんだよね。
アマゾンよりも紙があったほうがいい。アマゾンがなくなってもノートは欲しいとなってしまうのです。説明が下手だから。
次の子孫のために守ろうとか言われても、私たちは次の子孫じゃないもの。
私たちの祖先は、私たちのことを考えてくれたかというと、そんな気はしない。
原始人は私たちのことを考えてないし、江戸時代の人も考えてない。
原始時代には、現代がこんなになるとはわからなかったし、江戸時代も現代を予想できてなかったわけだし。
そんな予想もできない時代のことを守ったりできないでしょう。
だから私たちは、予想できない未来は守れない。
あと、未来の子孫を守れ守れって言うのは、具体的に守ろうとしてない人に言ってほしいですよね。例えば、
『ともかく原子力をバンバン使っちゃおう』
とか、
『戦争バンバンしちゃおう』
とか、そういう激しい考え方をもっている人に言うべきなのです。
世の中の人がそのことに関心を向ければ、そういう激しい考え方をもっている人が動きづらくなるというのはわかりますけども、それっていわゆる
『真綿で首を絞める』
みたいな方法だと思うのです。
首を絞めたければズバッと直接そういう人の首を絞めればいいわけで、知らなかった周りの人にチクッて、立場なくして、やめさせるというのは、どーも筋道が違うような気持がするのです。
小さなものを規制するために大勢の人が我慢しているような気持がするのです。私には。
出典:『所ジョージの私ならこうします-世直し改造計画-』より