大きな橋ができた時でも、『でけぇなぁ』 とは思っても、『いいなぁ』 とは思わない。

『ヘラもあります。粘土もあります。時間もあります。誰にも邪魔されません。さぁどうぞ』

と、いうところで作った陶芸品と、
『たぶんこの土の中に粘土があるよ』
と、言われて
『どこに粘土があるんだよ』
というところから始めて、物を作ったほうがどれほど価値があるか。



土を掘って、粘土らしきものが出てきて、
『多分これが粘土になるんだろう』
と、いうところからいくと
『この粘土もったいないことはできないぞ』
という段階になるわけで、そうするとできた陶芸品は、順番がいっぱいあったぶん、それだけちゃんとしたものになっているのです。

でも現実問題ムリだろうという話に絶対なるんだけれども、たとえ全部与えられても、自分で階段を全部下まで下りる感覚が大事なのです。

『ヘラもこういう経過でココにある。粘土も誰々が掘ってくれてここにある。みんなのおかげでやっと揃った』
というような想像力があれば、一つひとつが大事になるので、自分で土を掘り返さなくても、いいものが出来るのです。

なのに、粘土ありの状態で、ものを喋ってるのが今の世間なんです。

大きな橋ができた時でも、
『でけぇなぁ』
とは思っても、
『いいなぁ』
とは思わない。
『でけぇなぁ』
ただ、それだけ。それだけだから
『ここにのんな物こしらえやがって』
と、思っちゃう人も出てきちゃったりして。なんか間が抜けてる。


出典:『所ジョージの私ならこうします-世直し改造計画-』より